【イタリア旅行】7日目:ローマ郊外観光 アッピア街道 第1マイルストーン
イタリア旅行も本日が最終日。
あっという間ですね。。
この日は夕方の空港行き迄の間、ローマ郊外を中心に最後の観光を行います。
アッピア街道
この日、まず向かった先は「アッピア街道」。
ローマを起点に、ブリンディジという、イタリア地図で言うかかとの部分まで続いている道路です。
元は、紀元前312年に当時のケンソルであったアッピウス・クラウディウス・カエクスにて作られたもので、それが全部ではないにしても、現在まで残っている、とても歴史のある街道なのです。
アッピア街道という名前も、道路を作った人の名前「アッピウス」にちなんでつけられたのです。
ローマ街道
「すべての道はローマに通じる」という言葉があります通り、古代ローマでは道路というインフラをとても重視しておりました。
当時で言えば高速道路で、一番の目的は軍隊を目的地まで迅速に移動させるためのものです。
しかし、戦争が無く軍隊の移動が無い時は、当然ですが一般の人たちも通ることが出来ます。
移動時間の短縮が目的なので、道路は基本的に真っ直ぐ。
真っ直ぐに道を通すためなら山を切り崩す事も厭わない、とても手間もお金もかかっている道路なわけです。
道路の作りも凄い。
道路表面に石を敷き詰めているだけではありません。
軍隊が通るわけですから、大量で重量のある武器や食料、大勢の人間が間断なく通っても壊れない、堅牢な構造になっています。
道路の1~2m下から掘り下げて、石や、砂利など順に敷いた3層構造になっております。
また、水はけがよくなるよう、道路は緩やかなアーチになっていて、中央部が若干盛り上がった作りになっております。
こういった石畳の部分がいわゆる車道。幅3mの道路です。
横には1段高くなっている歩道がありまして、軍隊や馬車などが通る際に歩いている人は横の歩道に移動して道を譲っていたのでしょう。
街道の女王
アッピア街道は、このローマ街道の元祖というべきものでして、その後ローマ世界中に敷設された街道のモデルとなっております。
それゆえ、アッピア街道は「街道の女王」とも呼ばれているわけです。
順を追ってご紹介
そんな歴史ある街道を見に行きましたので、以下順にご紹介していきたいと思います。
移動
今まで同様、ガイドさんと運転手さんの案内のもと、ホテルから自動車での移動です。
自動車が無い人もご安心を。
アッピア街道へは、自動車でなくとも、地下鉄A線を使っていくことも出来るそうです。
駅からは若干歩くようなので、バスで乗り継ぐ手もあるそうです。
さて、我々がホテルを出たのは朝9時。
ローマの街中を自動車で通りすぎ、最初に着いたのはカラカラ浴場跡。
アッピア街道とは関係ないのですが、道中でしたのでちょっと寄ってみることにしました。
カラカラ浴場跡
古代ローマでも後期になります、212年から216年にかけて、カラカラ帝の治世に造営されたものです。
とっても大きな浴場でして、浴場というよりも巨大なレジャー施設としての役割が大きかったそうです。
場所はこちら。
我々が訪れたのは1月1日であったため、残念ながら閉まっておりました。
カラカラ浴場に限らず、殆どの施設は元旦という事もあり閉まっておりましたので、これはしょうがない(織り込み済み)。
なので、外から眺めてお終いでした。
広いですね。。
まあ、ここは正直私にとってあまり興味あるものではありませんでしたので、早々に次へ移動します。
第1マイルストーン
さて、ここからメインです!
次に向かいましたのは、アッピア街道最初のマイルストーンです。
この、壁に埋もれているのがマイルストーン。
残念ながら本物ではないそうです。
本物はカンピドリオ広場に移動されたそうですが・・そんなのあったかな??
さて、このマイルストーン。
日本語だと「里程標」と呼びまして、起点から何マイルかを示す標識として使われておりました。
当然ですが、1マイルは当時のローマで使われていた単位で今のマイルとは異なります。1ローママイルは、約1000歩だそうです。
ここが1マイル目だ、ということですが。
じゃあゼロマイル(起点)もあるわけですよね?
はい、フォロ・ロマーノの「黄金の里程標」がそれです。
ローマ2日目にフォロ・ロマーノに行って実物を目にしております。
「全ての道はローマに通じる」も、これに由来しているのかもしれません。
このマイルストーンのある場所はこちらです。
アッピア街道と言っても、普通の道路として使われておりますので、自動車もバンバン走っております。
こちらはアッピア街道と交差するように走っている道路。
右手にアッピア街道が続いております。
すぐそばには城壁と城門がありました。
サン・セバスティアーノ門というそうで、古代ローマ終わりかけのころ、3世紀頃に蛮族の侵入から守るために作られた「アウレリアヌス城壁」からアッピア街道に出るための門なのだそうです。
蛮族の侵入
帝政ローマに入る前、カエサルの時代になってからは、実はローマ市内を守るための城壁というのはありませんでした。
時代をさかのぼり、王政ローマ時代まで行きますと「セルウィウス城壁」というものがありましたが、この城壁はカエサルの手によりとり壊されたのです。
「ローマに平和が訪れたから城壁は不要」
理由が素晴らしい!
事実、カエサル以後300年間、外部からの脅威というのはなかったそうで、無防備な状態でも問題はなかったそうです。
※内乱はありましたけどね
しかし、300年も経つと、今度は蛮族の侵入に悩まされるようになってしまったのです。
よく言われている「ゲルマン民族の大移動」(4世紀頃)がそれです。
実際はその少し前から、ゲルマン民族などいわゆる当時ローマから蛮族と言われていた民族の侵略があったそうで。
それに対抗するため、このような城壁を作らざる負えなくなったそうです。
古代ローマの衰退を垣間見る事の出来る、貴重なモニュメントなのです。
「サン・セバスティアーノ門」は現在城壁博物館として一般公開されているそうです。
歴史に興味ある方であれば楽しめるのではないでしょうか。
続きます
アッピア街道の入り口にやっと差し掛かったところです。
メインイベントはこれからです(笑)
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