コロッセオに続き向かいましたのは、古代ローマの中心地であった「フォロ・ロマーノ」です!
フォロ・ロマーノ
元々は、古代ローマの政治・経済の中心だった場所です。
しかし、先にも書きましたが首都がここローマからコンスタンティノポリに移ってからは、どんどん衰退していき。
そして蛮族の侵入を許し、中世へと移行。
その間、ここフォロ・ロマーノは、いくつもある丘に挟まれた窪地という事もあり、どんどん土砂が堆積していき、カンポ・ヴェッキオと呼ばれる放牧場となっていたそうです。
15世紀(ルネッサンス期)になると、ローマ教皇ユリウス2世はローマ市街の再建を計画するわけですが。
そこで、事もあろうか!
地表にまだ埋もれず残っていた古代建築の装飾をはぎ取って建築資材に充てたり、建物をそのまま教会に転用したりと、そんなことをしていたのです!
先のコロッセオもそうですが。
現在残っているローマ遺跡がごつい石だけになっていて、装飾を見ることが出来ないのは、この時代の人たちのせいと言えるのかもしれません。。
話が脱線しましたが。
ここフォロ・フォマーノは、そういった歴史を経て、19世紀になり改めて発掘された歴史遺産なのです。
ルネッサンス期に色んな目に遭ったとはいえ、土砂に埋もれていたこの場所は、比較的当時の様子を遺せていてくれたようです。
移動
コロッセオからフォロ・ロマーノへの移動についてですが。
実は歩いていけば目と鼻の先。5分もあれば行けます。
しかし、自動車でいくと結構遠回りになってしまいます。
今回はお年寄りがおりましたのであえて自動車で行きましたが、普通に歩ける人でしたら、絶対に歩いていくことをオススメします。
自動車だと、こんなかんじでフォロ・ロマーノをぐるっと一周する必要があります。
入口、チケット
何カ所かあるのですが、日によって開いていたり閉まっていたり。
結構適当らしいので、特に歩いて回っている人には大変かもしれません。
今回我々は「Via dei Fori Imperiali(フォリ・インペリア通り)」にある入口から入りました。
「ティトの凱旋門」側にも入り口があるそうなのですが、こちらはこの日は閉まっておりました。
チケットは、前回のコロッセオで使ったものがそのまま使えます(共通チケットなのです)。
再入場も可。
チケットには2日間有効と書いてありましたので、とてもお買い得だと思います。
フォロ・ロマーノに入場
私はちょっと興奮気味でしたが(笑)、他のメンバーは正直興味なさげでした(汗・・まあ、石だけですからね。。
アントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿
入口を入って、東に向かいました。
途中左手にこのような建物が見えたのでとりあえず近くから撮った、というものです。
アントニヌス・ピウス自身は、正直なところ私の興味のある人物ではなかったので、スルーですが。
確か、ハドリアヌスの次に帝位についた人・・だったかと思います。
こんなかんじで、まずは東に向かっていきます。
下は当時の石畳のまんま、だそうです。
ティトゥスの凱旋門
エルサレム攻囲戦で勝利し、それを祝って作られた凱旋門です。
そして、それが良く分かるのがこの一枚。
「メノーラー」という、U字がいくつも積み重なって、真ん中に1本縦棒が入った模様のものがみえるかと思います。
ユダヤ教の象徴的存在らしく、それを持ち帰ったぞ!→ユダヤ教を制したぞ!
という意味が込められているそうです。
ちなみにこのユダヤ教。ご存知一神教ですが。
これが古代ローマの怒りを買った理由でもありまして。
当時古代ローマは多神教でして。
また、古代ローマの大きな特徴として、領土拡大で周りの民族を取り込んでも、決してその民族の文化や宗教を否定する事はしなかった、という点があります。
その民族が信じる宗教を弾圧する事なく、自由に信仰させていたのです。
そして、ローマ式インフラ(水道橋、円形劇場、道路)、終いにはローマ市民権まで与える、という事までしていたのです。
その代わりと言っては何ですが、最低限のルールには従うよう、税金だけは納めるようにさせていたそうです(と言っても日本の江戸時代のように半分以上、なんてことは無く、時代によっても異なりますが10分の1税みたいに10%だけもらう、みたいなものだったそうです)。
なので、周りの民族を結構うまく取込んで、それなりにうまく統治出来ていた訳ですが。
ユダヤ民族だけは別だったようです。
色々理由はあるのでしょうが、やはり一神教ということで、他を認めない→古代ローマのやり方に従わない、というところで色々問題があったようです。
この前後も(そして今も)、ユダヤ人と他民族(他宗教)とは色々問題がありますね。。
マクセンティウスのバシリカ
ものすごくでっかい建物でした(屋根が残っているこんなにでっかい建物が地面に埋もれていても残っていたんだ・・)
パラティーノの丘
途中みた景色。
奥にある白っぽいアーチで出来た場所で上にはよく見ると人がおります。
フォロ・ロマーノの南側に位置します。
今回ここには寄りませんでしたが・・時間あれば行きたかったところですね。
歴代ローマ皇帝やお金持ちなどが好んで住んでいた場所だそうです。
パレスの語源でもあります。
アントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿
さて、柱をよく見ると、上の方に横線が入っているのですが、わかりますでしょうか?
実はこれ、後世(15世紀頃)に採石しようとして途中まで頑張って切れ目を入れたものなのだそうです。
ですが、ここはローマンコンクリートの勝ち!(笑)
固すぎたのでしょう、あきらめてそのままにしたようです。
もう1つ面白情報。
中央に緑色した扉がありますね。
この扉は、ルネッサンス期になって作られた扉だそうです。
つまり、この扉の下は当時は地面だった、という事。ここまで土が堆積していたということがお分かりになるかと思います。
2000年という歳月をちょっとだけですが実感できたかな、と思いました。
巫女たちの家
かまどの女神ウェスタに仕える巫女たちの住居とのこと。
正直これを見るまで全然知りませんでした(^-^;
この職に就けるのは大変名誉な事らしいですが、その間そこから外に出るなど世俗と交わることが出来なかったそうです。。
自分には絶対無理!
同じく巫女たちの家。今は花が植えられて綺麗になっています・・昔からそうだったのかな?
ディウウス・カエサル神殿
さあ!来ました(笑)
アクティウムの海戦に勝利したオクタウィアヌス(後の初代皇帝アウグストゥス)が、神君カエサルを記念して建てた神殿。
って、今は跡形もないですが。。
この場所は、カエサルの遺体が火葬された場所でもありまして。
そのため、世界中のカエサルファンがお参りにくるところらしいです。
建物の中。
お参りに来た人たちが供え物として置いていったものが見えます。
そして、あちこちにあるキラキラしたものはコイン。
私もコインを置いてきました(笑)。
これはカエサル神殿の説明。なんて書いてあるかは残念ながらわかりません。。
バシリカ・ユリア
またカエサルです。
紀元前54年に、ガリア戦争の勝利で得た資金をもとにして、カエサルが建設を始めたものです。
バジリカについては前にも書きましたが、集会場など多目的に使われる場所。
ここでは、主に民事裁判所として使われたそうです。
施設内には(今は基礎しかないですが)、タベルナ(食堂・・今でもギリシャで同じ意味で使われています)、街や官公庁の事務所などもあったそうです。
タブラリウム
正面にそびえている建物は、公文書館。
よく見ると右側のアーチに人がおりますが、この人は多分、この後行く「カピトリーノ美術館」に行った人と思われます。
※そのあたりについては後ほど説明します
この写真を撮った位置の左手側に、先ほどのバシリカ・ユリアがあります。
ここから、右手奥の方に進んでいきます。
黄金の里程標
ここは全てのローマ街道の起点だよ、という印です。
ここを起点にして、xx街道1マイル目、2マイル目・・・というように距離を決めていき、そこにまだ同様の里程標を設置していたそうです。
里程標と言うより、マイルストーンと言った方がピンと来る人がいるかもしれません。
※別の日にアッピア街道のマイルストーンを目にしますが、それはまた追ってご紹介したいと思います。
今は土台しかないですが、元はもっと高くそびえる円柱だったそうです。
セプティミウス・セウェルスの凱旋門
これについては・・正直私はあまりよく知らないです(^-^;
が、保存状態がよく綺麗でした。
東側を向いて撮った一枚です。奥には先にご紹介しました「ティトゥスの凱旋門」が見えます。
フォロ・ロマーノお終い
カンピドリオの丘側に上って、出口を出ます。
ここフォロ・ロマーノに滞在していたのは多分1時間くらい・・短い。
もっと長く居たかったのですが・・みんなつまんなさそうにしているし(苦笑)。
というわけでもありませんが、もうお昼に近かったので。